僕が、Coincheck、Zaifのハッキング事件に激怒している理由 #1

URL: https://www.longhash.com/news/think-japan-is-a-crypto-heaven-try-filing-your-taxes-there

 

最近、Zaifが廃業になりましたが、そのことに寄せて、僕はこのようなツイートをしました。

多くの人は、僕の「怒り」の根元がどこにあるのか?よく分からない人も多いと思うので、きちんと話をしておこうと思います。まずは、僕がよく言う「賢者は歴史から学ぶ」ということで、「アジアの奇跡」を起こした幕末・明治の日本の歴史観から話をしようと思います。そこに、今回の僕のツイートの意味を理解するヒントがあるからです。

幕末から明治の日本が「アジアの奇跡」を起こせた理由

日本が世界史に残る「アジアの奇跡」を起こした期間は、幕末と開始点となった1953年のペリー来航から始まり、1867年の大政奉還・明治政府の成立を経て、1905年の日露戦争の終結までの「52年間」を指します。なぜ、世界史において「アジアの奇跡」と呼ばれているか?と言えば、答えはシンプルで、当時、アジアの中で、唯一、欧米列強の帝国主義による「植民地支配」の排除に成功した国家経済を実現したからです。かつてシルクロードを建設した唐の歴史をもつ中国ですら、イギリスの策略に負けてアヘン戦争に敗北し、今の香港にはじまり、沿岸部の相当部分の都市を植民化されてしまいましたから、それらを一切、排除した当時の幕末から明治を生き抜いた人材の秀逸ぶりが見えてきます。

この期間の日本を支えた人傑達は、ほぼノーミスで、日露戦争勝利までを走り抜けています。しかし、このノーミスというのが、絶対的に必須だったのですね。当時の日本人は、このことをよく分かっていた。一抹のミスすら許されない状況に日本が置かれていることを深く自覚していたということです。そのことを深く彼らに意識づけたのは、1840年から1842年、そして、1956年から1960年に中国で起きた第1次アヘン戦争と第二次アヘン戦争(アロー戦争)です。

From Wikipedia – 阿片戦争(アヘンせんそう、中: 第一次鴉片戰爭、英: First Opium War)は、清とイギリスの間で1840年から2年間にわたり行われた戦争である。イギリスは、インドで製造したアヘンを、清に輸出して巨額の利益を得ていた。アヘンの蔓延に危機感をつのらせた清がアヘンの全面禁輸を断行し、イギリス商人の保有するアヘンを没収・焼却したため、反発したイギリスとの間で戦争となった。イギリスの勝利に終わり、1842年に南京条約が締結され、英国は清国に対し、従来の広東(広州)に加えて、厦門、福州、寧波、上海の計5港を開港させ、それぞれに領事を置くこと、さらには香港の割譲も認めさせた。また清国中央政府は公式には認めていないが、当時の欽差大臣耆英が長江河口以南のアヘン貿易を非公式に黙認した。

この後、広東(広州)内外の住民の間で外国人排斥運動が盛んとなり、第二次アヘン戦争のキッカケとなる、アロー号事件を誘発します。

From Wikipedia – アロー戦争(アローせんそう、英語: Arrow War)は、1856年から1860年にかけて、清とイギリス・フランス連合軍との間で起こった戦争である。最終的に北京条約で終結した。戦争の理由の一つであった、中国人による多くの外国人排斥事件のうち、もっとも象徴的な出来事がアロー号事件であったため、日本ではアロー戦争と呼称される場合が多い。1860年、連合軍は北京を占領し、10・11月にロシア公使ニコライ・イグナチェフの調停の下に、英仏遠征軍司令官と恭親王との間に北京条約が締結された。この条約により清は、天津の開港、イギリスに対し九竜半島の割譲、中国人の海外への渡航許可などを認めさせられた。また、更に調停に入ったロシアに対しても、1858年にロシア帝国東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーが締結したアイグン条約以後の2年間は清露両国の雑居地であった外満州(現在の沿海州)を、正式に譲る事になった。特に、ロシアが沿海地方に軍港ウラジオストックを建設してロシア太平洋艦隊を常駐させ、シベリア鉄道建設によって大規模な兵の陸送を迅速化させようと計画したため、これが後の日露戦争への遠因となる。

イギリスが、麻薬であるアヘン貿易を中国に対して大量に行ったのは、中国という大国を内部から腐敗させるためですね。いわゆる調略作戦の一つです。このような出来事を横でみていた当時の日本人は、「ちょっとでもミスをしようものなら、一気に彼らに食われる」という自覚があったと思います。

しかし、それでも、大政奉還が起きるまでの日本は、危機の連続であり、その原因の大半は、くだらない「足の引っ張り合い」にありました。これは、後ほど話をする日本の仮想通貨・ブロックチェーン業界の立ち上がりの歴史と似ています。

もっとも愚かだったのは、権力争いをやっていた薩摩藩と長州藩の間に起きた1864年8月の「蛤御門の変」です。

From Wikipedia – 元治元年7月19日(1864年8月20日)に、京都で起きた武力衝突事件。急進的な尊皇攘夷論を掲げ、京都政局を主導していた長州藩は、公武合体派である会津藩と薩摩藩と政治的に対立するようになり、結果、御所の西辺である京都蛤御門(京都市上京区)付近で長州藩兵と会津・桑名藩兵が衝突、ここに戦闘が勃発し、その後、戦線は拡大、長州藩兵は薩摩藩にも攻撃をしかけ武力衝突を起こした。長州藩は敗北し、結果、藩兵は任を解かれて京都を追放され、藩主の毛利敬親と子の毛利定広は国許へ謹慎を命じられるなど、政治的な主導権を失った。

この時に、長州藩は、吉田松蔭が起こした松下村塾門弟の天才・久高玄瑞や、寺島忠三郎、入江九一など、本来は明治維新まで生き残るべきだった優れた人材を失っています。その後、このくだらない「足の引っ張り合い」に終止符を打ったのが、坂本龍馬でした。まず、彼が仲介となって、薩長同盟を締結させたことで、当時の江戸の幕府軍に対抗できる軍事勢力が生まれ、これが、大政奉還を可能にします。なぜか? 幕府軍と薩長同盟軍が本気で戦争をしたら、日本が潰れるからです。当時の幕府の裏にはフランスがつき、薩長同盟の裏にはイギリスがついていました。

勘の良い人ならわかりますね? アロー戦争で、連合チームを組んでいたらイギリスとフランスが、幕末の日本の二大勢力にそれぞれ別れてバックアップしていたわけです。これも調略の一つです。まず、二国とも武器を売ることで金儲けができ、かつ、この武器で二大勢力が戦争をやり、消耗すれば日本そのものが手に入る。それが当時のイギリスとフランスのリーダー達が書いていた筋書きです。

このことを坂本龍馬は見抜いて、二大勢力の冷戦状態を活用し、今度は、江戸幕府に朝廷に大政を奉還させるという「無血革命」の実現に動くわけです。この無血革命無くして、明治政府の、強力な、封建制から近代国家への変貌は実現不可能でした。この辺りの歴史を学ぶには、司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」がもっとも最適な書と言えるでしょう。名著の一つです。

 

そして、薩長勢力は、どうしても250年前の「関ヶ原の敗戦に対するケジメ」をつけたく、戦争回避に必死に動く坂本竜馬を暗殺し、また、幕府側も新撰組をはじめとする旧来勢力に「死に場」を与える必要があり、大政奉還の翌年の1968年に戊辰戦争が起きてしまいますが、場所を「江戸」ではなく、「北海道」にしたことが優れていた点です。戊辰戦争が江戸で起きれば、間違いなく日本の政治の中核であった江戸は荒廃し、イギリス・フランス軍に介入するスキを与える、思いツボであったからですね。

そして、明治維新と言う近代国家建設の中で、天才的なリーダーシップを発揮したのは、明治天皇です。非常に頭の切れる方であったことが様々なエピソードからわかっています。

よく知られた話としては、日常生活はとても質素で、どれほど寒い日でも暖房は火鉢1つだけ、暑中も軍服(御服)を脱がずに執務するなど、自己を律すること峻厳にして、天皇としての威厳の保持に努めたことや、記憶力が抜群によく、初代首相となり、明治天皇と共に、日本の立憲君主制の土台を築いた伊藤博文は「全部覚えているので、ゴマカシが効かない」とよく愚痴をこぼしていたよう。また、明治維新を進めていく中で、まず、政治の中心をそれまでの天皇がいた京都ではなく江戸にした点も優れていた、遷都などやっている時間がなかったからです。1秒でも早く、欧米列強に支配されない近代国家システムを作り上げる必要があった。そして、しばしば倒幕軍を率いた薩長の藩閥勢力と、新たな政党政治を起こそうとする新興勢力との間に対立が起きていたのを、その近代国家システムの建設に遅延が起きぬよう、なんども勅令を通じて宥和を実現したり、欧米列強を刺激することになる征韓論を唱える西郷隆盛を勅旨で収め、国内の近代国家システムの整備に注力することを促したことですね。明治天皇が、とにかく、欧米列強と互角に渡り合えるレベルの近代国家になるまで、彼らと直接対決をしない、彼らをいたずらに刺激しないようにコトを進めていたことがよくわかります

これらの集大成としての最大の実績は、間違いなく日露戦争での勝利でした。当時の帝政ロシアは、日本の3倍以上の軍事力を持っていました。例えば、日本の連合艦隊が勝利を納めた日本海戦におけるロシアのバルチック艦隊は、本国に残っていた余剰戦力を含めると、日本の3倍の海軍力を持っていました。つまり、日本の連合艦隊は、バルチック艦隊と一戦交えるしか戦力がない一方で、ロシア海軍は、3回やる体力があったと言うことです。つまり、長期戦になれば、日本は確実に負けるということ。だから、当時の日本政府は、明治天皇も含めて、自分たちの実力をよく知っていたから、日露戦争の引き際を理解して、戦争をはじめた。はじめから、海軍においては日本海海戦、そして、陸軍においては、奉天会戦を戦略目標に掲げ、この二つに勝利した時点で、アメリカ政府に仲介をやってもらい、帝政ロシアと休戦条約を結ぶ計画で動いていた。これが、1905年のポーツマス講和条約ですね。

この「アジアの奇跡」を起こした明治の日本を知る上でベストな書籍は、間違いなく同じ司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」ですね。名著の一つです。

この辺り、僕は別のブログで触れていますが、明治天皇亡き後の、アメリカとの間に、1:20の工業力格差がありながら太平洋戦争へと暴走した当時の日本政府や、テクノロジーイノベーションが世界の文明社会の進化を牽引する現代で、日本とシリコンバレーのリスクマネーの資本力格差が30倍以上開いているのにも関わらず、いまだに、日本発Googleを狙うのだと言っている、日本のスタートアップ業界や政府関係者が、当時の明治政府と比べて、どれぐらい戦略的頭脳がない愚鈍な集団かわかるでしょう。彼らのツケを払っているのは、日本の一般個人なのですよ。このブログの読者は、そこをよく分かった方がいい。太平洋戦争に暴走した昭和時代から、何も学んでいないし、一ミリもレベルアップしていない。

「失われた30年」の最後のチャンスになった「ブロックチェーン」の登場

そう、僕は、Orbを始める前からこれがわかっていたのですね。僕は、Orbを2014年に創業する前の2010年から2012年の間、シリコンバレーで、フェイスブックを生んだソーシャルの次、Next Big Thingと言われたコンテンツキュレーションの市場でMusavyと言うベンチャーを起業し、彼らの「スタートアップを科学している」世界を目の当たりにしました。圧倒的な格差。スタートアップエコシステムのレベルで、日本とシリコンバレーの間に20年近い差が空いていることを深く体感すると同時に、この壁を乗り換えるには、「奇策中の奇策が必要」と考えていた。そのような戦略論を理解したい人は、「孫子の兵法」を100回は読んだ方がいいですね。僕は現に100回読んでいます。名著の一つです。

今の社会というのは、全て「ポスト資本主義」に向けて動いている。これは、僕の大学生のときからかわらぬ哲学であり、シリコンバレーの基礎を築いたアップルやオラクルを生み出したパーソナルコンピュータ産業、そして、Google、フェイブックを生み出したインターネット産業、全ては、ブロックチェーンを生み出すための布石と言えるテクノロジーなのです。この点を深く理解したい人は、僕がOrb時代に書いたホワイトペーパーを読まれるとよいと思います。

このブログでは、よく話をしていますが、ブロックチェーンは、P2Pテクノロジーです。P2Pとは、以下の図にある通りです。

左がインターネットのクライアント・サーバーモデル、右がブロックチェーンのP2Pモデル

インターネットは、その中核技術のWWW(World Wide Web)の発明者であるティム・バーナーズ・リーも言っていますが、非中集権的なメディアを作ることをゴールにしていました。しかし、なぜ、インターネット産業は、GAFAに代表されるように、中央集権的な存在になってしまったのか?

これには、原因が3つあります。

原因①:当時のパソコンのスペックも低く、普及台数が少なかったこと

一つ目は、1990年代は、コンピューターの数が少なかったことです。以下の図を見てください。緑がデスクトップパソコン、青がノートブックパソコン、そして、オレンジが、スマホに代表されるタブレットパソコンの販売台数です。ブロックチェーンのようなP2Pネットワークの技術は、個人を中心とする不特定多数の人が、パソコンをもち、そして、インターネットにほぼ常時接続していることで、従来のクライアントサーバーシステムのように、中央のサーバーに頼らずとも、お互いのコンピュータネットワークを共有することができるようになるのですね。しかし、デスクトップパソコンもノートパソコンも個人がもつには高価で、重すぎる。だから、結局、サイト運営側がデータセンターに大量のサーバーを並べる方が現実的な解決策になったのですね。

しかし、そこに、スティーブ・ジョブズが手がけたスマホが登場することで、パソコン保有者の数が、劇的に増加しました。オレンジのグラフ線がその証拠です。

おかげで、世界のインターネット人口は、36億人を超えた。この数字に貢献しているのは間違いなくスマホです。

理由②:パソコン間の通信速度が遅すぎた

次の課題は、通信速度がとても遅かったことです。今、多くの人が、家庭で使ったり、もしくは大学やショッピングモールなどに行った際に使える有料/無料で利用できるWifi、1994年当時、Wifiのように無線で使えるものはなく、全て有線、つまりケーブルをパソコンにつないでインターネットを使っていました。

しかも、その速度も非常に遅く、1秒間に1MBのデータを送るのもやっとでした。遅すぎるのですね。今や、秒間100MBやそれ以上のデータを送ることは当たり前になって来ています。そして、モバイル通信も秒間20GB(20,000MB)は送信可能な5Gがとうとう実現可能になってきている。5Gについては、「こちらの記事」にまとめています。

また、個人が持っているパソコンとパソコンをネットワークでつないで通信する技術、今でこそ、Direct WifiやBluetoothなどの技術が発達していますが、当時はそのような技術もなかったわけです。

たとえば、今、iPhoneのAirdropを使えば、データ量の重たい動画ファイルなども瞬時に近くにいる人と送りあえるようになってきています。P2Pテクノロジーを僕らの日常生活にも使える可能性が開けて来た訳です。

理由③:個人が常に善意的にふるまってくれる訳ではない

そして、最後に、ここが最重要です。本当にインターネットを純粋なP2Pで作ろうとした場合、そこに参加する個人は、ある暗黙の約束を守ってもらう必要がある。それは、互いに「データを改ざんしない」ということ。例えば、自分が登録している個人情報や、投稿内容、場合によっては銀行口座の情報など、これらの情報を全てP2Pネットワークで運営する場合は、参加する他の個人が、他人に対してこれらのデータを無断で悪意的に書き換えないことが必要です。しかし、無理ですよね。世の中には悪いことをする奴が必ず出てくる。だから、これが当時、インターネットがクライアント・サーバーモデルを採用したもっとも大きな理由の一つでした。サービス側が責任を持って、データを改ざんされ内容に運営することを前提にしています。

しかし、これも裏切られることがある。現に、僕がちょうどOrbを創業したころ、2014年2月5日に発覚した「横浜銀行データ不正取得事件」はその典型的なものですね。横浜銀行のATM保守管理業務に従事していた富士通フロンテックの社員が、預金者の情報をもとに他行から数千万円を引き出したという事件ですね。ニュース自体は、こちらです。

つまり、この3つ目のハードルは、「内外の誰もがデータを改ざんできないテクノロジー」、これがあれば突破できる訳です。そして、そのテクノロジーこそが、ブロックチェーンなのです。

パーソナルコンピュターが登場してから50年、インターネットが登場してから20年、第3のIT革命として、ブロックチェーンが登場してきた。これは、日本にとっては、20年ぶりに訪れた繊細一隅のチャンスになるわけです。僕は、このテクノロジーで産業リードをとることこそ、未来の日本にとって、起死回生の「奇策中の奇策」になると考えた。

つづく。

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